会部
2の続き
「……ん、」
軽く身じろぎして、奴が薄く目を開ける。
「起きたか」
「え、あ……」
声をかけたが、まだ完全に頭が起きていないのか、どこか茫洋とした目が俺を映していた。
なんだか幼い子供のような風情を、可愛いと感じる。
「なんで、キミが……──あっ!」
突然大きな声を上げて、奴は慌てて立ち上がろうとした。だが気絶に近い状態まで追い込まれていた身体は奴の思い通りに動かず、ふらりと倒れそうになる。
「あぶねーな」
半ば予測していた俺が抱きとめてやったというのに、奴はひたすら暴れて俺の腕から逃げようとしていた。
「離してくれっ! 僕、早く戻らないと!!」
足がガクガクと震えて、まともに歩くのすら困難そうに見えるのに、必死で抗おうとしている。肩にも震えが走るのは、俺に対する怯えもあるのか。
「あいつら、帰ったぞ。あとはバグとりだけだと」
「え……」
端的にそれだけ告げれば、腕の中の身体が抵抗をなくす。
「そんな……」
絶望しきったような悲痛な声に、ちくりと胸が痛んだ。
それでも謝ることはできず、抱き締める腕にただ力を篭める。離すまいとするまでもなく何の抵抗もない事に、僅かな不安を覚えた。
「……どうしてくれるんだよっ」
浴びせかけられた罵りは力ない。嗚咽が混じったそれに、胸を衝かれるようだ。
「……ひどいよ……キミは、ひどい……」
詰られる覚悟はしていた。だが、怒鳴りつけられるだろうとばかり思っていたのだ。
最中にどれだけ酷くしても泣かなかったこいつに、まさかこんな風に泣かれてしまうとは考えていなかった俺は、こいつが泣いているという事実だけでうろたえてしまう。
緩んだ腕の隙間から、奴が顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔はひどいとしか言いようがない。
それでも……綺麗、だった。
「……僕を、何だと思ってるんだい?」
奴の口元が歪む。
笑みを形取ろうとしたそれは、途中で失敗して崩れた。
「何があったか知らないけど」
話してる最中に、奴の喉が嗚咽を堪えるようにひぐっと鳴る。けれどそれに頓着した様子もなく、奴は淡々と言葉を続けた。
涙が、次から次へと頬を伝い落ちている。
「八つ当たりもいい加減にしてくれ。何も、他の人にまで迷惑掛けることないだろ?」
八つ当たり、という単語が気になったが、遮るのは何となく憚られた。とりあえず言いたいだけ言わせてやろうと心に決めて、言葉を胸に留めていく。
「……僕だけなら、まだいいよ。仕方ないし。だけど、こんな……いくらなんでも酷いじゃないか」
辛そうに眇めた目から、また大粒の涙が流れていく。
「どうせ僕のことなんか、忘れてたくせに……」
真っ直ぐ俺を見据えていた視線が揺らいだ。
「本命に振られたんだろう? それともすっぽかされたのかい? そうでもなきゃ、わざわざウチに来たりなんかしないよね」
「ちょっと待て」
言いたいだけ言わせてやろうと決めてはいたが、流石にその言い草は看過できずに口を挟む。
「本命って何の話だよ」
「いるんだろ?」
挑みかかるような挑発的な視線に苛立ちを覚えた。
怒鳴りつけそうになったが、その気配を察したかびくっと肩を竦める様子に毒気が抜かれる。
「──強いていうなら、お前だ」
そこまで言ってやったのに、間髪いれず否定された。
「嘘だ」
否定というより、拒否に近い響きに、我知らず溜息が漏れる。
「お前なあ……」
「そんなの嘘だっ!」
どんっと強く胸を押されて、油断していたせいでたたらを踏んだ。奴は俺の腕から逃れると、傷付いたような視線を向けてくる。
「──何の約束も、しなかったじゃないか」
一瞬、言われた言葉の意味が掴めなかった。
その俺の態度を曲解したらしく、そいつは似合わない自嘲めいた笑みを泣きながら浮かべている。
「つまりはそういうことだろう?」
「おい」
「キミが今日一緒に過ごそうと思ってた相手は僕じゃないじゃないか」
「ちょっと待て」
「振られたんだとしたら同情するし、イライラするのも無理ないとは思うけど、八つ当たりされるほうはたまったもんじゃないんだぞ」
「話聞けって!」
「いたっ」
強く腕を引けば、奴の口から短い悲鳴が漏れる。本気で抵抗してくる身体をどうにか抑え込むと、悔しそうな目が俺を睨み据えた。
「何するんだ! 離せよ!!」
気丈に言い募る様子に怯みそうになったが、そのまま引き寄せて俺の腕の中に抱きこんでしまう。ぎゅっと抱きすくめると身体が強張ったが、……すぐに敵わないと思い知ったか力が抜けていった。それでも緩やかな抵抗は続いている。もちろん逃がす気なんかない。
ほどなくして、嗚咽混じりの文句が聞こえてきた。
「はなせ、よぉ」
「嫌だ」
「なんで……なんで、こんな、」
ぐずぐず文句を言い募るそいつに、苦笑に近い笑みが口元に浮かぶ。
話を聞けと、言ってるだろうが。
「俺は、お前と過ごすつもりだったんだが?」
そう告げると、たっぷり一分ほどの沈黙が流れた。
「……へ?」
間抜けた声に、ああもうこいつは……と頭を抱えたくなりつつ、言葉を紡ぐ。
「付き合ってるのに、今更約束なんか必要か? 俺はお前と一緒にいるつもりだったって言ってるんだよ」
「……嘘だ」
そういうだろうと思ったぜ。だけどな。
「嘘じゃない」
「そんなの僕は信じない」
「信じなくてもいいが本当のことだ」
「うそ……だ……」
「嘘じゃないって言ってるだろ」
「だって、そんな……」
ああもう、面倒な奴だな。
舌打ちしたくなったが、結局のところ俺はそうしないことを自分でわかっている。こいつが面倒臭いのは承知の上で、それでも欲しくて欲しくてどうしようもなかった。
「俺はお前が好きだって何回も言ったはずだが、覚えられないのか? それとも忘れたか?」
「忘れてないよ! 忘れるわけないだろ!! ──でも、」
くしゃりと、そいつの顔が歪む。
「ぼ、僕が好きだって言ったから、合わせてくれてただけじゃないのかい?」
「はあ?」
いったい何をどうすればそういう話になるんだ。
不可解すぎてあいた口が塞がらない。
「キミが前、自分で言ってたんじゃないか。好きだって言われたら、嫌いでどうしようもない奴でもなけりゃ相手に合わせちゃうほうが楽だって……だから、僕はてっきり……」
「俺、そんなこと言ったか?」
「言ったよ! ……随分前のことだけど」
記憶を探ってみたが、覚えがない。
だがこいつと付き合うまでの間、自堕落な関係を方々で続けていたのは確かなので、そんなことを言ったかもしれないとは思えた。
「キミ、二股とか当たり前にしてたし、最近あんまりあえなかったし、本命できたんだろうなって……いや、別にそれがダメってわけじゃないんだ。わかってたし、それでいいって思って告白したし、だから……その、今日はそっちと過ごすことになってて僕には声かかんないんだろうなってちゃんと納得して、……納得してるんだけど、なんか……なんだろうな、色々考えちゃってさ」
俯きながらぽつぽつと喋る合間に、ずずっと鼻を啜る姿は、まるで子供みたいだ。
「一人で作業とかしてたらもっと色々考えちゃいそうな気がして、だから皆に来てもらって、」
一旦言葉を切って、躊躇いがちに手を伸ばす。
俺の服の裾を、きゅっと握り締めた。
「本当は、君が来てくれて、すごく嬉しかった」
か細い声は、震えていた。
「でも、あからさまに他の人の代わりにされるのとか、そういうのはやっぱきつくてさ。せめて、僕といるときは僕だけ見て欲しいけど……それは無理だってわかってたから、」
奴が一旦言葉を区切る。
何か言いたそうな気配がしばらく続いて、だけど結局奴はその続きを告げることはなかった。
「……ごめん、こんな話されたって困るよね」
するりと、服を掴んでいた指先が離れていく。
「僕、帰る」
だから離してくれ、と。
泣きながら呟く姿が可愛くて、どうしようもない。
「クリスマス、俺と過ごしたいと思ってたのか?」
「……うん」
「約束しなかったから無理だって?」
「うん」
「お前さあ、」
それならそれで、自分から誘うくらいしろよ。
言い掛けた言葉が、溜息へと変わる。
そういえばこいつは筋金入りのペシミストだと、俺は知っていたじゃないか。
なれば全て俺が悪いのだ。
「──じゃあ、」
来年からは空けておけ。
そう耳元に吹き込めば、触れていないとわからないほど微かな動きで頷く。
それを確かめて、俺は今日幾度めかの溜息を落としたのだった。
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