キョン古キョン
之助さんに捧ぐ
「古泉」
彼が僕の名を呼ぶ。
「はい?」
彼から呼びかけられることは少し珍しい。いつも僕の求めに面倒くさそうに応じるのが彼の常だった。
──閉鎖空間に赴いた直後は、特に。
「なんでしょう」
僅かに浮き立つ心を悟られないように、殊更笑みを深めてみせれば、彼が眉を顰めた。僕の笑顔を偽りだと知っている彼は、時に僕が笑いかけるだけで不機嫌になる。それでも笑うことをやめろと言われることはないから、彼が不機嫌になる理由に気付かない振りをして、僕は笑顔を貼り付け続ける。
「こっちに来い」
手招く彼はベッドの上でむすっとした表情を作っている。僕は少し戸惑いながらも曖昧に微笑んで、彼の言葉に従った。
「……どうしました?」
すぐ傍らに寄り添うと、腰に手を回され引き寄せられた。
「あ、あの、」
ぎゅう、と抱きすくめられて困惑する。
閉鎖空間から戻った後に、彼が見せる反応はどちらかといえば強い忌避感からくる嫌悪だ。触れてもらえることなどこれまでなかったからとても驚いた。
ふわりと、頭を優しく撫でられて、肩がピクリと強張った。
「な、何を……っ」
こんな優しさは知らない。ましてや欲しいと思っていたわけじゃない。それなのに、嬉しいと感じてしまったことがとても怖くて、僕はその優しい手を振り払ってしまった。
上擦った声も、慌てた動作も、『古泉一樹』には許されざるものだ。自分がとってしまった行動に、僕は焦った。だからといって、その時の僕にいったい何が出来たというのだろう。
ともすればガタガタと震え出してしまいそうな自分自身を叱咤する。早く、笑顔を作れ。『古泉一樹』であれ、と。
こくりと、小さく喉がなった。
──それは、彼に気付かれてしまっただろうか?
「どういった風の吹き回しですか」
「労ってやろうと思っただけだ」
「それはそれは……」
ありがとうと、感謝の言葉でも紡げばいいのだろうか。
それとも、後で労うくらいならもう少し気をつけるようにとでも言うべきか。
どちらにせよ、『古泉一樹』であるならば即座に応じなければいけないのに、迷うなんてあってはならないことなのに、僕は言葉に詰まってしまった。それだけ、彼の行動が僕にもたらしたものが大きかったのかもしれない。
ぐっと腕を掴まれて引き寄せられ、彼の上に乗り上げるような体勢になる。咄嗟に体重をかけないよう調整したけれど、それがかえって僕を逃げられなくさせた。
今度は、振り払うことすら出来そうにない。
やんわりと抱き締められて、まるで大切なものを扱うような丁寧な手つきに、視界が霞んだ。
ぽつりと、涙が零れ落ちる。彼の肩を雫が濡らした。
なんで、なんで今更……。
「お疲れさん、頑張ったな」
欲しいと望んだ時には与えられず、僕が全てを諦めた途端に与えられるのか。
これも全て、神の望んだ世界なのだろうか。
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